・Introduction 1′
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・F. Liszt
Nuages Gris 3′
纏足(てんそく)を施された足というのは異形の美の極みとされる。
10cmに満たない小さな纏足は特に美しく官能的であるとされ、『三寸金蓮』と呼ばれて唐の昔から清朝まで、男たちによって陶然と愛でられてきた。
纏足の女性はうまく歩けないので、ゆらゆらと秋桜のように頼りなげに揺れながら室内を移動した。
閨房で自分の妻や愛人の纏足を愛撫することは、男がその女を完全に支配下に納めたという意味である。
そして女にとって纏足に触れられるというのは、裸体を見られるよりずっと恥ずかしい。
纏足を巻く布を男がはらはらと解き始めると、女は羞恥に息も絶え絶えとなり、男は法悦のあまり脳髄が溶解して毛穴からだらだらと溶けて流れ出るのを感じる。
このまま自分の脳髄と汗にまみれて溺れ死んでもかまわないとさえ男は思う。
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・S. Barber
Excursions 4′
ほんの数日のつもりで出た旅なのに、もう2世紀近くも彷徨している。
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Hesitation Tango 4′
昨夜、バルで安物のウィスキーをしこたま飲んだ後、安宿に帰る途中でのこと。
前を歩く女の脚の美しさを視界の端が捕らえた瞬間、ただでさえ酒毒に冒された理性は脆くもあっけなく瓦解した。
一晩16ユーロの部屋に強引に連れ込んで、ハイヒールを乱暴に脱がせ、ギシギシ嫌な音をたてる蚕棚のような寝台に女を押し倒す。
しかし、いくら酔っていたとはいえ、スカートをはぎ取ってその脚を開くまで、女が実は男であることに気づかなかったのは全くの迂闊であった。
すっかり酔いも醒め、下着一枚で窓枠に腰掛けて月を見ながら煙草を吸っていると、件(くだん)の女だか男だかが床から起き上がる気配があった。
立ち上がって暫くじっとしているようだったが、やがて彼は静かに踊り始めた。
青ざめた月光が照らす中、踊り続けるその姿には倒錯的な美しさがあるように思えた。
まだこめかみの辺りにいじましく酔いが張りついているのかも知れぬ。
映画『気狂(きぐる)いピエロ』の主人公の名前がどうしても思い出せない。
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・F. Chopin
Waltz Op.69 No.2 b minor
Waltz KK IVa Nr. 15 e minor
Etude Op.10, Nr.3 E major “Farewell” 11′
ショパンのような作曲家とは、本当は20代半ばあたりで訣別すべきだったのだ。
アンビヴァレンツな惑いを見せる自分の心から目を逸らす。
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・G. Ligeti
Musica Riccercata 3′
「最近、夫がもっと家計を引き締めろとうるさく言いますの」
「まあ、煩わしいこと」
「宮廷に出入りする身としては、いつも同じ衣装というわけにはいきませんでしょう?」
「その通りですわ」
「理解がない夫を持つと気苦労が絶えませんことね」
「本当に。お察し申し上げます」
「・・・どうにかならないものかしら?」
「砒素でよければ宅にたんまりとありますけれど」
「あらそれは素敵。今度のお茶会にお持ち下さる?」
「勿論ですとも。お役に立てて光栄ですわ」
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・S. Prokofiev
The Dance of The Knights from Romeo and Juliet 5′
ロミオもジュリエットも平凡な人型の典型である。
だからシェイクスピアは、両家を対立させて困難な状況をお膳立てして、せめて悲劇の体裁を整えたのである。
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・S. Rachmaninov
Prelude Op. 23-5 g minor 4′
19世紀帝政ロシア時代、青年貴族たちの間には『メランコリア』という名の伝染病が蔓延していた。
良家に育った箱入りの青年たちは、ある年齢に達すると決まって人妻に恋に落ち、その女性の名前は判で押したようにみなアンナ・カレーニナといった。
アレクセイもセルゲイもミハルもみなアンナ・カレーニナという名の人妻に溺れていった。
アンナの夫は名誉のため青年たちに決闘を申し込み、青年たちは決闘そのものより、アンナに書き遺す恋文の冒頭が思い浮かばぬことに懊悩し、苦渋の眠れぬ夜を過ごした。
やっと気の利いた文句が閃くと狂喜し、フランスからの舶来の美しいレターペーパーに、綴りに気をつけながら慎重にそれを書きつけた。
涙のシミもバランスに神経を配りながらところどころにつけた。
どうしたら涙で美しくインクを滲ませられるかの研究が進み、涙の成分が科学的に解明されていった。
国産の紙が練習用として何枚も消費され、おかげでロシアは慢性の紙不足に陥り、紙幣の印刷にも事欠くようになり、国内経済の均衡が急激に崩れ始めた。
紙節約令が皇帝の名のもと何度も発令されたが、さほど効果はなかった。
一方で、涙の方は青年たちが無尽蔵に貯蓄していたので特に何の問題も起きなかった。
さて、決闘が何らかの理由で未遂に終わり数年経つと、青年たちは次々に若い娘と結婚していった。
写真の中の彼らは本当に幸せそうで、花嫁の細い胴は軍服姿の花婿の力強い腕に搦め取られていた。
その頃、アンナはどうしたのか。
曾てコルセットで締め上げられた53cmのウェストは、ここ数年でcmからmへの劇的な単位の変貌を辿らずにはいられなかったが、アンナは幸せだった。
『メランコリア』とは、多感な青年貴族たちの脳の前頭葉に描き出される一過性の幻影であることを、彼女はよく知っていたのである。
アンナはまた物理的な快楽を純粋に楽しめる希有の女性で、青年たちのメランコリアを餌として喰み尽くす獏(ばく)のような生き物でもあったのだ。
記憶の中に棲む女はいつもとても美しい。
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To be continued…
All artwork: Catherine Raben Davidsen