【欲すること、望むことを忘れた妻の結末】
E. サティ:グノシエンヌ第1、2、3番
「じゃあ」と、まだベッドの中でシーツに包まったままの妻にちょっと手を上げると、寝室の扉はぱたりと閉じられた。
夫は行ってしまった。ヨーロッパで最も成功している舞台演出家である彼は、再三再四のニューヨークメトロポリタン劇場からの依頼をとうとう断れず、ついに新作の演出を受けることになったのだ。
これから3週間は帰らぬらしい。パリ16区の広大なアパルトマンの中にただ一人、若い妻はぽつねんと取り残された。
サイドテーブルに手を伸ばしてデキャンタを引き寄せると、琥珀色の液体でクリスタルのグラスを満たした。ぐっと一息にあおる。
やっとの思いで起き上がると、レコードプレーヤーの前に立ち、エリック・サティのレコードを載せた。腰まである蜂蜜色の髪の一房がはらりと肩越しに前へ落ち、彼女の横顔を覆った。
日曜日の朝、カフェラテを飲みながらサティを聴く ー この行為を夫は悪趣味の極致だと言ってひどく嫌う。パリに住んだことがない三文小説家が、パリが舞台の駄作の冒頭部に書きそうな、いかにもといった通俗性に耐えられないのだという。
この家の調度品も、読む本も、観る映画も、付き合う相手も、すべてにおいて夫の洗練され尽くした趣味が反映していた。その洗練には少し腐乱しかけた退廃の匂いがしていなければならなかった。腐る一歩手前の肉が一番美味なのと同じように。
この家で、唯一洗練されていないのは私の脳みそだけだわ、と妻は思った。私の脳はとっくに腐敗して機能を失っているから、彼の好む腐臭は漂わせている筈だけれど。
3年前、彼が彼女に求婚したとき、驚いた彼女がなぜ自分なのかと問うた時、彼はあっさりと言った。
「だって君は美しいじゃないか」
私は調度品として、彼の趣味に適ったのだ。個性や人格は、その際完全に無視された。
窓辺に腰を下ろして、煙草に火を点けた。喉を焼いていった琥珀色の液体とサティのグノシエンヌが、彼女の内で渾然となってやがて曼荼羅絵図のように渦巻き始めた。
グノシエンヌの第1曲目の楽譜には、サティによってこう書かれている。
「思考のすみで・・・あなたを頼りに・・・舌にのせて」
なんて不思議な曲想標語かしら。妻はぐるぐる渦巻く思考を弄(もてあそ)び始めた。
思考のすみに・・・夫はいない。
あなたを頼りに・・・していないわ。出会ってから少しの間にはドップリしていたのにね。
舌にのせて・・・どの男の話かしら。結婚して3番目に寝てみた男は悪くなかった。接吻が上手だった。夫が留守の間に何度かここに呼び出してみよう。
第2曲目の楽譜には「外出するな・・・驕り高ぶるな」
外出するな・・・ええ、今日はしないわ。明日も明後日もしない。もしかしたら、一生しないかもしれない。
驕り高ぶるな・・・ どうやって驕り高ぶれるというのかしら、私はただの調度品なのに。テーブルや椅子に向かって驕り高ぶるなだなんて、サティったらやっぱり変な人ね。
第3曲目は「先見の明をもって・・・窪みを生じるように・・・ひどくまごついて・・・頭を開いて」
先見の明をもって・・・アル中で随分昔に死んだ父親も私にくどくど同じことを言っていた。
窪みを生じるように・・・サティも無粋な男ね。女の体なんて窪みだらけだわ。
ひどくまごついて・・・ええ、演技をするまでもなく。
頭を開いて・・・いいわ、ぱっくりと開いてあげる。ただし、私にまだ頭というものが存在していたらの話よ。
4曲目は「ゆっくりと」
・・・レコードはグノシエンヌの第4曲目に差し掛かり、陶然となってもう一杯ウィスキーを飲もうと体を起こしかけたその時。
彼女はにわかにバランスを崩し、煙草の煙を気にして開け放っていた窓の向こう側へ、「ゆっくりと」転落していった。
2015年4月19日、「七つの大罪」Vol.2 欲望編コンサートインフォ:http://www.erikomakimura.com/2014/12/七つの大罪vol-2「欲望編」%E3%80%80バレエ&ピアノ/