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「七つの大罪」Vol.2 欲望編プログラムノート其の3

【身を捧げるものを持つということ、そして持つ者同士の邂逅と果てしない貪欲】

S. バーバー:「パ・ド・ドゥ」「寝室での出来事」「遠足」

「パ・ド・ドゥ」とは「2人のステップ」の意味で、本来バレエ作品において男女2人の踊り手によって展開される踊りのことをいう。同性2人による踊りは「デュエット」と呼ばれ、「パ・ド・ドゥ」とは区別される。愛の象徴とも言える男女の踊りを針山愛美は今日、孤高の静寂の中、1人で舞う。

次の「寝室での出来事」は原題を「Hesitation Tango」と言い、字のごとく、典型的なタンゴのリズムがこの曲のベースを支えている。

バレエからタンゴへ。

image                                                          (Photo: Christian Friedlander)

足を痛めて一度は絶望の奈落を落ちていったバレリーナが、小さな劇場から再びタンゴダンサーとしての再起を誓う。

 

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「遠足」。そんなに「遠」くまで「足」を伸ばしたとは思わないうち、気がついたら世界の中心であるニューヨークの街を歩いている自分がいた。つい先ごろまで、場末の劇場でタンゴを踊っていたなんて信じられない。

ニューヨークを制するものは世界を制すという。この街で、必ず成功してみせる。

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ここで、本日「欲望編」を共にする、針山愛美(えみ)という稀有な才能を持つバレリーナについてお話したい。

針山愛美。13歳で単身ソビエト崩壊直後のロシアに短期留学という、バレリーナとしての壮絶な幕開けがあった。

1993年、15歳で今度は正式にボリショイバレエ学校に入学。混乱の極みのペレストロイカ直後下での生活を生き延びる。爆撃などの非常事態宣言の中、配給の途切れがちな店先に何時間も並んだ挙句、パン一つ支給されることがこの上ない喜びだったと言う。長らく両親とも連絡がつかず、日本の家族は娘の生死さえ分からぬ状態だった。

日本人どころか外国人さえ珍しかったであろう当時のボリショイバレエ学校での日々について、私は詳しく愛美ちゃんから聞いたことはない。しかし、彼女が同僚のロシア人たちと話す、強い意志に満ちたロシア語を聞いているだけで、このバレリーナの過ごした生死をかけたモスクワ時代が透いて見えるようだ。

雌伏のときを経て、1996年より”Emi Hariyama” は、文字通り世界中の劇場のプログラムにその名を躍らせることとなる。ボリショイバレエ学校を首席卒業後、モスクワ音楽劇場バレエ団に入団、パリ国際バレエコンクール銀賞(金賞該当者なし)、モスクワ国際バレエコンクール特別賞受賞、ニューヨーク国際バレエコンクールで日本人として初めて受賞・・・等々、続々と快挙を成し遂げてゆく。
また、2002年にアメリカ国際バレエコンクールで決勝に残り、特別賞受賞を果たした様子は『情熱大陸』で放映され、多くの日本人たちがその勇姿に涙した。

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世界中のあらゆるトップクラスのバレエ団からソリストとしてのオファーが絶えることがない。地球単位で縦横無尽に、時差を利用して東から西へ飛ぶことで、2大陸で同日に舞台を踏んだりしている。『地球の自転軸と逆行するバレリーナ』という異名を私から授かって、本当にそうねえ、とおっとり微笑む美しい人なのだ。
怪我や故障に悩んだ日もあったに違いない。しかし、しなやかで強い彼女はそれについての話も触れるか触れぬか程度だ。

私たちが初めて出会ったのは、2007年、ベルリンでの室内楽コンサートの後の打ち上げの席だった。コンサートを聴きにきてくれていた愛美ちゃんに、共通の友人が引き合わせてくれたのが始まりだった。

それから3年後の2010年、愛美ちゃんはまるで隣の駅までちょっと、という身軽さで私が住むコペンハーゲンにやって来た。ショー当日、彼女が会場に着いたとき、私は傾斜する屋根の上に登って、ともすれば滑り落ちそうになる体を必死に支えながら、明り取りの天窓10枚を黒い布で覆う作業に没頭していた。まさか、ピアニストの自分が、ショー開始前に屋根に道具箱とともに登って金槌をふるうようになるとは、ベルリン時代には思いもよらなかった。

私は屋根から下りてピアノの前に座り、彼女はポワントを履き、2人の目がひたと合った。その瞬間から物語は始まったといっていい。

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出会いからちょうど丸8年。この針山愛美というバレリーナと今日この日、知力の限りを尽くして欲望編を演じ切りたい。

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2015年4月19日、「七つの大罪」Vol.2 欲望編コンサートインフォ: http://www.erikomakimura.com/2014/12/七つの大罪vol-2「欲望編」%E3%80%80バレエ&ピアノ/

「七つの大罪」Vol.2 欲望編プログラムノート其の1

【一瞬の肉欲とその代償】

F. シューベルト:即興曲Op.90-1

体の異変に気付いた時、まさかという嫌な予感はあった。震える手でメガネを取ると、フランツは自分の顔を鏡に映してまじまじと見た。金壺眼(まなこ)に、赤い唇、肉ののった短い顎。青白い皮膚にはうっすらと赤い発疹が散っていた。

まさか。

エステルハージ伯爵のハンガリーの避暑地での出来事が思い出され、心臓を錐で突かれたような衝撃を受けて、思わず洗面台で体を支えた。

1818年の夏。うっそりとした庭園の緑。小間使いのエルザ。流し目と口元の酷薄な笑み。白い手に誘(いざな)われた自分の無骨な手。解かれたタイと脱がされた白いシャツ。30女の熟した肌。ギシギシ嫌な音をたてる彼女の部屋の粗末な寝台。

ああ、何がどうしてあんなことになってしまったのか。エステルハージ家の気品溢れる令嬢達のピアノ教師という堅い立場を忘れ、なんという堕落・・・。 あの、爛れるような肉欲と快楽の一瞬に対して、支払わなければ鳴らない代償ががこれか。

人には明かせない病気。

特に父には言えない。あの、厳格で破廉恥を決して許さぬ父には。父フランツ・テオドール・シューベルトの第12子である自分が、まさかこのようなことになるとは。

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(父、フランツ・テオドール・シューベルト)

もう一度恐る恐る鏡に目をやると、今度は顔だけでなく頭部にも無数の赤い発疹を認め、フランツは蹲(うずくま)って顔を覆って嗚咽した。

以下、フランツの発病と病状を彼と彼の友人達の手紙や証言に基づいた年譜で追う。

1818年

エステルハージ伯爵の避暑地で令嬢にピアノを教える傍ら、小間使いと情事

「人には言えない」病気に感染

1822年終わり

明らかな体調不良

1823年

2月28日、「健康状態が外を出ることを許さないから訪問できない」

5月、ウィーンの一般市民病院に入院 髪の毛が全部抜け落ちる

8月、「健康はまあまあ良好」「(しかし)僕がまた完全な健康体に戻れるかというと、それはほとんど信じられない」(ショーバーに宛てた手紙より)

11月初旬、 悪化

11月末、完全復活(本人談)

12月24日、「シューベルトはまた快方に向かっている。それほど遠くない時期に、また自分の髪で出歩くようになるだろう。なにしろ発疹が出来たために、丸坊主にしなくてはならなかったんだからね。今はなかなか良いカツラを被っているよ」(シュウィントからショーバーへ宛てた手紙より)

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(左:スターバリトン歌手フォーグル、右:シューベルト)

1824年

4月、重い再発
「僕は自分が世界中で最も不幸で最も惨めな人間だと感じている。健康がもはや2度と回復しない人間のおとを考えてみてほしい」

4月14日、「シューベルトはあまり具合がよくない。左腕に痛みがあるので、全くピアノが弾けない」(シュウィントからショーバーへに宛てた手紙より)

5月、エステルハージ伯爵避暑地にて、再びピアノ教師の職に就く

これより3年間、病気は小康状態を保つ

1827年

頭痛がし始め体調悪化。鬱状態もひどくなる
10月15日、「私は病気で、しかもどんな方の相手をするのも全く不可能なほど病気です」

1828年

11月12日、「ショーバー!僕は病気だ。11日間も飲むことも食べることも出来ずに、疲労でフラフラしながらベッドとソファの間を行ったり来たり繰り返している。何か口に入れてもすぐ吐いてしまう」

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死の床で朦朧としながらもフランツは祈った。生きたい、なんとしても。もっと曲を書かねば。シンフォニーのコーダ、金管楽器の輝かしいファンファーレが、叩きつけるような頭痛の中を鳴り響く。

生きたい 能(あた)う限り 生きたい

11月19日、フランツ・シューベルト死去(31歳)

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 (シューベルトの眼鏡)

「七つの大罪」Vol.2 欲望編  インフォ:http://www.erikomakimura.com/2014/12/七つの大罪vol-2「欲望編」%E3%80%80バレエ&ピアノ/

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