Essay Vol.7: My First Year In Berlin, 2002
1ヶ月半ぶりに戻ってきたベルリンのアパートには、どこから忍びこんだか秋の気配が充満していた。まだ9月に入ったばかりだというのに、空の青も窓から射す日の光も樹々の緑も、色という色がいささか淡すぎた。
アパートはあまりにもがらんとしていた。ピアノにはうっすら埃が積もり、ベッドルームには文字通りベッドしかなかった。リビングルームは空っぽで、絨毯を敷いていない打ちっ放しの床がだらしなく無機質に広がっていた。恐ろしく天井の高いキッチンのみがやや正常に機能していたが、その天袋の棚にはアンティークのように朽ちかけた古いクラリネットが2本横たわっており、私を気味悪がらせた。旧東独時代の住人の置き忘れではなかったか。
【入試までの2ヶ月】
2002年5月にベルリンに足を踏み入れ、南ドイツでのコンサートツアー、ベルリン芸術大学とハンスアイスラー音楽大学の入試、その他留学に付随するさまざまな煩わしいことを済ませ、私は7、8月に一旦日本へ戻った。払っても払っても泥のような疲労感が抜けず、再びベルリンに戻れる気がしなかった。大学の合否もまだ分からなかったし、何よりこの街を愛せる自信がなかったのだ。人々はいつも不機嫌で、ベルリンの壁崩壊から13年経っているというのに、自他の境界線上にはアスベストで固めたひどく頑強な壁が未だにそびえ立っているように思われ、気が滅入った。
5月6日。アパートに入居した翌日、引っ越したら1週間以内に住民票を届け出なければならないと誰かが言っていたのを思い出し、私は隣人に詳細を聞くことにした。口ひげを生やしたそのドイツ人の中年男性は全く英語が話せず、”Polizei, Polizei”(警察)を繰り返す。私がなかなか理解しないことにイライラしているようで、こめかみに薄く青筋が浮いている。住民登録のことをドイツ語で”Polizeianmeldung “というのだが、彼のあまりの剣幕に恐れをなした私は、どうやら彼が警察に電話して問い合わせろといっているのだと早合点した。そして挨拶もそこそこに家に駆け込んで受話器を取り、「1」「1」「0」とプッシュフォンを押した。つまり110番通報してしまったのだ。
これ以上ないほど不機嫌な警察官の応答が受話器越しに聞こえた瞬間、私は自分の過ちに気付いた。住民登録をするのに110番通報するなどという話があり得ようか。蚊の泣くような声で”Do you speak English? “と尋ねると、”Nein! “と刺すような返答があり電話は切られた。私は床に突っ伏した。広大な宇宙の塗り込めたような暗闇の中に、塵となって飲み込まれて消えてなくなってしまいたかった。
小さな事件は果てしなく続いた。
自転車で歩道か車道のどちらを走ればよいのか分からず、歩道をふらふら走っていると、向こうの方から警察官が歩いてきて大声でこちらを指差して叫んでいる。私は恐怖した。ブレーキをかけようとするのだが、まだバックブレーキに慣れておらず、パニックに陥った私はコントロール能力を失い、自分に向かって喚き続けている警察官の靴をそのまま自転車で轢いてしまった。喚き散らしていた警察官はやっと大人しくなった。ショックで言葉を失ったようで、その後私は何度も謝ったが、一言「歩道を自転車で走らないように」と呟くと、もはや彼の口が開かれることはなかった。
国外でも容赦なくハプニングは起こった。
南ドイツでのコンサートツアーの最中、半日オフの日があり遠足がてら列車でスイスに出かけた。山が視界に斜めに斬り込んでくるという感覚を初めて味わい、空気は美しく、私はすっかりこの国が気に入ってしまった。
しかし、出国時に問題は勃発する。入国時はすんなり入れたのだが、いざ帰る時に電車内でパスポートコントロールがあり、私がパスポートを不所持と知るや、6人ほどのスタッフが私を取り囲み、次の駅で強制的に降ろされてしまった。神々しいようなスイスの山々に囲まれて、図らずも不法入国してしまったらしい私は、「パスポートがここに届くまで君はどこにも行けないよ」と厳かに宣告されたのだった。
神々の黄昏(Götterdämmerung )— ふいにワーグナーの楽劇の名が頭をよぎった。遠くで羊がベエーと鳴くのが聞こえる。何もかもが平和だった。そして私だけがあまりに異質な気がした。
【音楽家のニルバーナ、ベルリン】
ツアーが終わり、入試までの日々を私はベルリンフィルやオペラハウスに通うことに慰めを見出しつつ過ごした。ベルリンは音楽家のニルバーナだ。紫煙をくゆらす横の女性の顔をふと見ると、それがマルタ・アルゲリッチであったりする。フィルハーモニーで、当時主任指揮者に就任したばかりのサー・サイモン・ラトルがすぐ向かいに立っておられたので、「サーの演奏をこれから楽しみにしています」と少し緊張しながら言うと、「僕も本当に楽しみなんだ!」と気さくに返してくれる。また、ダニエル・バレンボイムがカフェで一服しているのも見かける。マエストロたちが毎晩コンサートホールで音楽史上に歴史を刻んでゆく足音を聞きながら、後進の音楽学生は日々練習室に籠もって楽器と格闘する。歴史が前進するのを五感全てで感じ取れる街、ベルリン。
【入試】
入試の日を迎えた。穏やかな気分で目が覚め、清清しい気持ちで受験会場に向かったのに、ことは全て間違った方向へ進んでいった。
入試要項を訳してくれた知人が4曲準備するようにと書いてきたのでしっかり準備して入試に臨んだのだが、実は5曲演奏しなければならないということが試験会場で発覚した。私が4曲しか準備していないと言うと、審査員たちは「じゃあ、来年の入学試験でまた会いましょう」と無表情にバイバイと手を振った。
突如、得体の知れない怒りと屈辱に襲われ、私の足は立っていられないほど震え始めた。そんな私の様子を見て審査員の1人が、じゃあ今から10分だけ時間をあげるから、よく考えてそれで試験を受ける気があるようなら戻ってきなさい、と告げた。私はそのまま練習室に飛び込んだ。練習していたロシア人に頼み込んで代わってもらい、準備していなかったショパンのエチュードをやみくもにさらった。
10分後試験会場に戻り、未だ収まらぬ怒りの中でピアノを弾いた。課題曲を訳し忘れたいつもいい加減な知人、確認を怠った大馬鹿者の自分、冷たく手を振った審査員、カンティーンで出される煮込みすぎたほうれん草、どのお菓子にも紛れ込んでいる甘ったるいマジパン、もさもさして酸っぱい黒パン、アジア人と見ると、見境なく「ニーハオ」と声を掛けてくる輩、ドイツ語の複雑な活用表、ゲーテ、ワーグナー、シューマッハー、グリム兄弟・・・ドイツに関係する何もかもに腹が立って、演奏の間中私は怒り続けていた。そして、怒りの感情渦巻く中でピアノを弾くというアンプロフェッショナルな行為をしてしまった自分を呪いながら、試験会場を後にした。もう二度とこの大学の門をくぐることはあるまい。次の日には別大学の入試が控えている。気持ちを切り替えなければならない。
しかし、翌日の入試の際の演奏は大した出来とは思えなかった。前日の試験で全ての感情を吐き出したせいか、この日は妙に気ののらぬ演奏だった。初見の課題曲に山のようなフラットと臨時記号が付いており、私は心底うんざりしながら無感動に鍵盤上で指を動かした。心臓は常よりゆっくりと鼓動していた。今までこんなに醒めた気持ちで演奏したことはない。未完で荒削りとはいえ、情熱は暑苦しいほど持ち合わせていたというのに。
どうしたことか、私は両大学に合格した。自分の演奏というのは本人が一番よく分かっているので、謙遜でも何でもなく、ただ運が良かったのだと思う。しかし、このときに持っていた運を全て使い果たしたようで、その後現在に至るまで幾多の苦難が待ち受けていることを当時の私は知る由もない。
【無為の日】
7月、猛暑の日本に帰ると、ひどい疲労感と空しさで無為の日々を過ごした。合格通知が届いたが、それが合格通知とも分からない自分の語学力を鼻で笑いたい気分だった。何しろ、Ja(はい)、Nein(いいえ)、Danke(ありがとう)、そして前述のPolizei (警察) しか知らなかったのだ。英語はまあまあ話せたが、当時のベルリンでは大して役に立たなかった。その昔ウィーンに留学していた母が、辞書を引きながら届いた手紙を訳してくれた。両親の心配はここに極まった感があった。
友人・知人は、素晴らしい師を求めて世界各国に飛び立っていった。その中には旧ソ連の衛星国でまだ混乱の中にある国や、治安や衛生環境の整っていない国もある。音楽以外の友人も、NPOから派遣されインドやカンボジアの貧困地域で何ヶ月もヴォランティア活動をしたりしている。
それに引き換え、経済大国で治安も悪くないドイツのベルリンに留学が決まった自分は、恵まれた環境にありながら何一つ手つかずの状態で虚無の毎日。ドイツの美しいお城やヴィラでの演奏会の様子が思い出され懐かしかったが、一方で熱狂的クラシックファンのドイツ人夫妻が演奏会後、「バッハの鍵盤音楽における装飾音の入れ方」について猛烈な議論を吹っかけてきたのに辟易としたことも思い出され、深い溜め息が漏れた。
【再びベルリンへ、そして北欧への旅】
悶々と過ごし、ベルリンに戻る日まであと1週間となったその日、1 本の国際電話がかかってきた。大学時代の友人のチェリストからで、休みを利用してヨーロッパ中を周っているという。現在ハンガリーに滞在中で、明日からチェコのプラハへ行き、それから北欧への旅を予定しているらしい。よければ北欧の旅を一緒にしないかというお誘いの電話だった。何も考えぬまま即座に「行く」と返事をすると、じゃあヘルシンキで待ち合わせましょう、と彼女は言い、また連絡するねと機嫌よく電話は切られた。
私はしばし会話の内容を反芻した。彼女はプラハからヘルシンキへ電車で行くと言っていたような気がするが、そんなことは可能なのだろうか。大体、携帯もPCも持っていない同士の2人が、じゃあ明々後日あたりにヘルシンキで、という曖昧な口約束で無事会えるものなのだろうか。そもそもヘルシンキってどこにあるのだろう。
2日後、私は機上の人となった。あの電話の後、ルフトハンザに電話してベルリン行きのフライト日時を早め、旅行代理店に飛び込んで北欧レイルパスを買い、手当たり次第スーツケースに詰め込んで実家を後にした。
1ヵ月半ぶりにベルリンのアパートに戻ってきた私は暫く呆然とした。こんなに空っぽの家で、私は最初の2ヶ月を過ごしていたのか。
しかし感傷に浸るひまもなく、電話の呼び出し音が痛いほどの静寂を破った。一緒に旅行することになった友人からだ。今プラハにいる、突然だが明日ベルリンに行ってもいいかと問うてくる。ヘルシンキで落ち合う予定はどうなったのかと思っていると、ドレスデンで大洪水が起こり、ヘルシンキ行きは不可能になったので、取りあえず私のいるベルリンに向かいたいとのことだった。私にはプラハとドレスデン、ヘルシンキがどう繋がるのかもはや皆目検討がつかず、しかし長らく続いた無為の日々は今日までで、明日からはどうやらとんでもなく面白い毎日が始まりそうだという予感で久々に胸の高鳴りを覚えた。
翌朝、Berlin Ostbahnhof (ベルリン東駅)のプラットフォームに、大きなチェロケースを背負い、スーツケースを引いて彼女は立っていた。ドイツはその年ひどい水害に見舞われていたので、プラハからの旅もいつもの何倍も時間がかかっただろうに、彼女は非常に元気で最高の笑顔で私の名を叫んだ。大声で笑いながらハグし、早速冗談を交わしながら私のアパートへ向かった。アパートへの道順もまともに覚えていなかったが、もうそんなことはどうでもよかった。今日から始まる日々、そして彼女との北欧の旅が全てのような気がした。
こんな風にして私の留学生活は唐突に旅から始まった。
Essay Vol.6: my 10th Anniversary in Europe
今からちょうど10年前の2002年5月初旬、京都市立芸術大学大学院を卒業したばかりの24歳の私はスーツケース一つとともにベルリンテーゲル空港に降り立った。自らの意志でドイツ留学を決めたとはいえ、文字通り右も左も分からず不安が胸を去来していた。つい13年前までこの街は壁により東西に分断されており、2002年当時、街にはまだそこここに混沌が存在していた。私の新しい住まいは旧東ベルリン側に見つけてあったが、最初の数日は電気が通っておらず、ロウソクの灯りで夜を過ごした。
一方、そこから遡ること59年の1943年、京都帝国大学医学部(現京都大学)を卒業した23歳の私の母方の祖父は軍医となり、フィリピン戦線へ従軍することとなった。祖父の長兄が「医学部へ入って軍医になるように」との遺言を遺して逝ったからだ。生家の奈良の寺院を継ぐはずだった長兄は1939年12月14日に中国で戦死した。あとには幼い男の子が遺児として残された。
(写真: 祖父の生家 )
【フィリピンへ】
五島列島沖、沖縄沖、高雄沖、バシー海峡、度々の激しい魚雷攻撃の中で、祖父の船は沈まなかった。一度は魚雷に船底を破られたが、二重底のお陰で助かったのだ。
マニラ港の桟橋に上陸してから1年間は比較的平穏な警備任務の日々だったが、1944年12月末、いよいよ米軍のリンガエン湾上陸作戦が開始され、熾烈な戦闘が始まる。
戦場は酸鼻を極めた。負傷者、戦死者が山のように出て、嘔吐を催すような屍臭が立ち込め、餓えと渇きが部隊に蔓延する。塹壕のしらみと蝿にも悩まされた。栄養失調でみな幽鬼のような姿になった。
祖父は衛生兵と協力して負傷者の収容と手当てに全力を尽くしたが、激しい攻撃の中ついに右足を負傷。化膿して大腿部まで腫れ上がった右足を引きずりつつ、バラバラになった部隊の生き残りたちと励ましあいながら、深い山の中を彷徨することになる。部隊は全滅に次ぐ全滅だった。
食べるものといえば腐った木に生えた茸だけ。ちょうど雨期のフィリピンでは星が見えず、方向を見失った祖父と負傷兵2人の3人は餓死一歩手前で深山をさまよい続ける。標高1,300~1,500mの山上は非常に寒く、しかも一日中びしょ濡れだった。そしてついに山中に住むイゴロット族に発見され、捕らえられてしまう。
【イゴロット族】
祖父は死を覚悟した。2人の兵とはバラバラに村の方へ引きずってゆかれ、やがて彼の死刑執行人と思われる眼の鋭い男が祖父の持ち物を調べてから言った。
「英語が話せるか」「話せる」
「お前はドクトルか」「そうだ」
彼は憎悪をむき出しにして言った。
「お前たち日本人は何という残酷な人種だ。我々イゴロット族はこの山間地帯に住む平和なカトリック教徒だ。それなのに、お前たちが侵入してきて村を焼き、女、子供まで殺した。」
ここから男と祖父の問答は始まった。私の祖父は奈良の真宗本派の寺院に生を受けた仏教徒ゆえ、山の中では唯一の動物食であるサワガニさえ獲って食べなかった。家族を大事に平和に生きてきたカトリックのイゴロット族の男性と、餓死寸前でもカニ一匹獲らぬ仏教徒の祖父は、真っ向から対峙した。なぜ戦わねばならぬのか。
死を覚悟した男と死刑を執行する立場の男の対話はどれほど続いたのだろう。突然、イゴロットの男は叫んだ。
「ドクトル、貴方は平和な人だ。そして立派な教養を持っている。」
彼は祖父を縛っていた紐を急いで解いてくれ、そして水と塩とサツマイモを与えてから言った。
「ドクトル、私は貴方を尊敬する。しかし、日本人はすべて死刑だ。私は貴方を殺さねばならない。」
「いや、よく分かっている。」
祖父は結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢を取った。
あたりは暗くなり、急に寒くなってきた。イゴロットの男性は火を焚いて祖父を暖めてくれ、スープのようなものを飲ませてくれたが、疲労困憊の極にあった祖父はそれを飲むと意識を失うように眠りに落ちていった。
揺り起こされて目が覚めると、先ほどの男性が旧式のアメリカ銃を持ち、その息子と思われる若者が蔓を編んで作った幅広い紐を持っていた。いよいよ処刑するのだなと思ったが、若者は自分に負(お)ぶされと合図する。祖父を背負って2人は歩き出した。村の外れで殺すのかと思ったが、弱り果てていた祖父はそのまま若者の背でうとうと寝入ってしまった。
下ろされて目が覚めると、すっかり夜が明けていた。2人はバナナやサツマイモを食べ、祖父にも食べろと勧めてくれたが、彼にはもう食べる力もなかった。2人は祖父を背負うと再び歩き出した。歩いては休憩し、を繰り返し、その間祖父は終始若者の背の上でうとうとしていた。死は祖父のすぐ真横にあって微笑んでいた。
再び揺り起こされて目覚めた祖父は、状況を把握するや
「しまった」
と臍を噛む。周りはアメリカ兵だらけだったのだ。
軍人、特に将校は理由の如何を問わず、絶対に捕虜になってはいけないという鉄則があった。軍医の祖父も然りだった。
絶食して死ぬしかないと祖父が決心したとき、先のイゴロットが日系2世と思しき男性と一緒に傍らへやって来た。
「元気を出しなさい。日本兵はジュネーブ条約どおり、送り返される。君は日本へ帰れるよ」
ハワイ出身の日系2世の男性が祖父を励ました。
「グッバイ、ドクトル」
イゴロット族の男性が祖父に別れを告げた。非戦闘員の軍医とはいえ、日本人であった祖父はイゴロットに捕まれば当然死刑に処せられるところ、夜通し背負って米軍の元へ運ばれ、一命を取りとめたのだった。
【米軍による保護】
どういうわけか、祖父はモンテルーパの日本人収容所には送られず、バギオの米兵病院に入れられ、そこで手厚い看護を受けた。米兵が乱暴しないようにM.Pが常時三交代で傍らに付いてくれたが、M.Pも米兵も皆とても親切だった。
よろよろながら歩けるようになった祖父はモンテルーパの病院に送られる。そこでは酷い栄養失調の日本兵がどんどん搬び込まれ、病院は大混雑だった。せっかく生きて搬び込まれたというのに、気が緩むせいか、兵は次々と亡くなっていった。
米軍の軍医だけでは手が廻らず、その上言葉が通じないというので、見るに見かねてよろよろと足を引きずりながら手伝っていた祖父だが、やがて医師としてそのままその病院に留まることになる。
祖父は徐々に回復していった。イゴロット族に捕らえられたときに受けた左眉の傷も、綺麗に整形してもらった。
【祖国へ】
昭和21年秋、二度と見ることのできるはずのなかった故国の緑の山々を仰ぎ、二度と踏むことのできるはずのなかった故国の土を踏んだ。
その後も、医師としての祖父の人生は熾烈を極めた。開業医として診察に励む傍ら、化学肥料と農薬による中毒患者の症例に気付いた彼は、「完全無農薬有機農法」を提唱するのだが、当時それは近代社会体制に対する反逆と見なされ、激しい抗議と脅迫を各種団体から受けた。役所からは狂人扱いされた。
やがて、じりじりするほどゆっくりとではあるが祖父の提唱は世間に浸透してゆき、有吉佐和子氏の著書、「複合汚染」に彼の活動と信念が大きく取り上げられ、またその功績から「吉川英治文化賞」を受賞する頃になると、祖父への迫害もようやく収拾の途を辿ることになるのだが、その話はまた改めて書く機会があるかもしれない。
【第九】
ヨーロッパ滞在10年にこと寄せて何か書こうかとぼんやりPCの前に座ったら、私がベルリンに降り立ったのとちょうど同じ年頃に、死を覚悟してマニラに向かった祖父のことがふと思い出され、手元に彼の手記があったのを幸い一気に筆を進めた。
祖父は心底ベートーヴェンを敬愛しており、交響曲第9番4楽章の合唱「歓びの歌」のドイツ語歌詞を全てカタカナ書きにして、当時小学生だった私に手渡してくれた。祖父はドイツ語も堪能だった。私はほとんど意味も分からぬままそれを暗記し、祖父と大声で歌ったものだ。今でも全部そらで歌える。私が留学先をドイツに決めたのも、この辺りが本当の理由なのかもしれない、と今になって思い当たった。
祖父から贈られた本の内開きに「えりちゃんの 真実の幸せの光を祈って 祖父義亮」と達筆で認(したた)められている。次の10年、私は何を思い、どのように生きてゆくのか。
祖父が診察室で口ずさむ歓びの歌が、今にも聞こえてくるようだ。
I am going to play a contemporary piece on 26.04.2012 at Kunsthal Charlottenborg!
New artFREQ. events announced!: 1. JOHN COOPER CLARKE at Kunsthal Charlottenborg, Cph. + 2. SCHREI 27 (Davide Pepe & Diamanda Galás) + BO NINGEN + ERIKO MAKIMURA at Kunsthal Charlottenborg, Cph. + 3. MURCOF vs ANTIVJ + LUCKY DRAGONS + LOUD OBJECTS + RECOIL Performamnce Group at Click Festival/Kulturværftet, Elsinore/Helsingør.
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