Essay Vol.6: my 10th Anniversary in Europe

今からちょうど10年前の20025月初旬、京都市立芸術大学大学院を卒業したばかりの24歳の私はスーツケース一つとともにベルリンテーゲル空港に降り立った。自らの意志でドイツ留学を決めたとはいえ、文字通り右も左も分からず不安が胸を去来していた。つい13年前までこの街は壁により東西に分断されており、2002年当時、街にはまだそこここに混沌が存在していた。私の新しい住まいは旧東ベルリン側に見つけてあったが、最初の数日は電気が通っておらず、ロウソクの灯りで夜を過ごした。

 

一方、そこから遡ること59年の1943年、京都帝国大学医学部(現京都大学)を卒業した23歳の私の母方の祖父は軍医となり、フィリピン戦線へ従軍することとなった。祖父の長兄が「医学部へ入って軍医になるように」との遺言を遺して逝ったからだ。生家の奈良の寺院を継ぐはずだった長兄は19391214日に中国で戦死した。あとには幼い男の子が遺児として残された。

 

 

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(写真: 祖父の生家 )

 

【フィリピンへ】

五島列島沖、沖縄沖、高雄沖、バシー海峡、度々の激しい魚雷攻撃の中で、祖父の船は沈まなかった。一度は魚雷に船底を破られたが、二重底のお陰で助かったのだ。

マニラ港の桟橋に上陸してから1年間は比較的平穏な警備任務の日々だったが、194412月末、いよいよ米軍のリンガエン湾上陸作戦が開始され、熾烈な戦闘が始まる。

戦場は酸鼻を極めた。負傷者、戦死者が山のように出て、嘔吐を催すような屍臭が立ち込め、餓えと渇きが部隊に蔓延する。塹壕のしらみと蝿にも悩まされた。栄養失調でみな幽鬼のような姿になった。

祖父は衛生兵と協力して負傷者の収容と手当てに全力を尽くしたが、激しい攻撃の中ついに右足を負傷。化膿して大腿部まで腫れ上がった右足を引きずりつつ、バラバラになった部隊の生き残りたちと励ましあいながら、深い山の中を彷徨することになる。部隊は全滅に次ぐ全滅だった。

食べるものといえば腐った木に生えた茸だけ。ちょうど雨期のフィリピンでは星が見えず、方向を見失った祖父と負傷兵2人の3人は餓死一歩手前で深山をさまよい続ける。標高1,3001,500mの山上は非常に寒く、しかも一日中びしょ濡れだった。そしてついに山中に住むイゴロット族に発見され、捕らえられてしまう。

 

【イゴロット族】

祖父は死を覚悟した。2人の兵とはバラバラに村の方へ引きずってゆかれ、やがて彼の死刑執行人と思われる眼の鋭い男が祖父の持ち物を調べてから言った。

「英語が話せるか」「話せる」

「お前はドクトルか」「そうだ」

彼は憎悪をむき出しにして言った。

「お前たち日本人は何という残酷な人種だ。我々イゴロット族はこの山間地帯に住む平和なカトリック教徒だ。それなのに、お前たちが侵入してきて村を焼き、女、子供まで殺した。」

ここから男と祖父の問答は始まった。私の祖父は奈良の真宗本派の寺院に生を受けた仏教徒ゆえ、山の中では唯一の動物食であるサワガニさえ獲って食べなかった。家族を大事に平和に生きてきたカトリックのイゴロット族の男性と、餓死寸前でもカニ一匹獲らぬ仏教徒の祖父は、真っ向から対峙した。なぜ戦わねばならぬのか。

死を覚悟した男と死刑を執行する立場の男の対話はどれほど続いたのだろう。突然、イゴロットの男は叫んだ。

「ドクトル、貴方は平和な人だ。そして立派な教養を持っている。」

彼は祖父を縛っていた紐を急いで解いてくれ、そして水と塩とサツマイモを与えてから言った。

「ドクトル、私は貴方を尊敬する。しかし、日本人はすべて死刑だ。私は貴方を殺さねばならない。」

「いや、よく分かっている。」

祖父は結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢を取った。

あたりは暗くなり、急に寒くなってきた。イゴロットの男性は火を焚いて祖父を暖めてくれ、スープのようなものを飲ませてくれたが、疲労困憊の極にあった祖父はそれを飲むと意識を失うように眠りに落ちていった。

揺り起こされて目が覚めると、先ほどの男性が旧式のアメリカ銃を持ち、その息子と思われる若者が蔓を編んで作った幅広い紐を持っていた。いよいよ処刑するのだなと思ったが、若者は自分に負(お)ぶされと合図する。祖父を背負って2人は歩き出した。村の外れで殺すのかと思ったが、弱り果てていた祖父はそのまま若者の背でうとうと寝入ってしまった。

下ろされて目が覚めると、すっかり夜が明けていた。2人はバナナやサツマイモを食べ、祖父にも食べろと勧めてくれたが、彼にはもう食べる力もなかった。2人は祖父を背負うと再び歩き出した。歩いては休憩し、を繰り返し、その間祖父は終始若者の背の上でうとうとしていた。死は祖父のすぐ真横にあって微笑んでいた。

再び揺り起こされて目覚めた祖父は、状況を把握するや

「しまった」

と臍を噛む。周りはアメリカ兵だらけだったのだ。

軍人、特に将校は理由の如何を問わず、絶対に捕虜になってはいけないという鉄則があった。軍医の祖父も然りだった。

絶食して死ぬしかないと祖父が決心したとき、先のイゴロットが日系2世と思しき男性と一緒に傍らへやって来た。

「元気を出しなさい。日本兵はジュネーブ条約どおり、送り返される。君は日本へ帰れるよ」

ハワイ出身の日系2世の男性が祖父を励ました。

「グッバイ、ドクトル」

イゴロット族の男性が祖父に別れを告げた。非戦闘員の軍医とはいえ、日本人であった祖父はイゴロットに捕まれば当然死刑に処せられるところ、夜通し背負って米軍の元へ運ばれ、一命を取りとめたのだった。

 

【米軍による保護】

どういうわけか、祖父はモンテルーパの日本人収容所には送られず、バギオの米兵病院に入れられ、そこで手厚い看護を受けた。米兵が乱暴しないようにM.Pが常時三交代で傍らに付いてくれたが、M.Pも米兵も皆とても親切だった。

よろよろながら歩けるようになった祖父はモンテルーパの病院に送られる。そこでは酷い栄養失調の日本兵がどんどん搬び込まれ、病院は大混雑だった。せっかく生きて搬び込まれたというのに、気が緩むせいか、兵は次々と亡くなっていった。

米軍の軍医だけでは手が廻らず、その上言葉が通じないというので、見るに見かねてよろよろと足を引きずりながら手伝っていた祖父だが、やがて医師としてそのままその病院に留まることになる。

祖父は徐々に回復していった。イゴロット族に捕らえられたときに受けた左眉の傷も、綺麗に整形してもらった。

 

【祖国へ】

昭和21年秋、二度と見ることのできるはずのなかった故国の緑の山々を仰ぎ、二度と踏むことのできるはずのなかった故国の土を踏んだ。

その後も、医師としての祖父の人生は熾烈を極めた。開業医として診察に励む傍ら、化学肥料と農薬による中毒患者の症例に気付いた彼は、「完全無農薬有機農法」を提唱するのだが、当時それは近代社会体制に対する反逆と見なされ、激しい抗議と脅迫を各種団体から受けた。役所からは狂人扱いされた。

やがて、じりじりするほどゆっくりとではあるが祖父の提唱は世間に浸透してゆき、有吉佐和子氏の著書、「複合汚染」に彼の活動と信念が大きく取り上げられ、またその功績から「吉川英治文化賞」を受賞する頃になると、祖父への迫害もようやく収拾の途を辿ることになるのだが、その話はまた改めて書く機会があるかもしれない。

 

【第九】

ヨーロッパ滞在10年にこと寄せて何か書こうかとぼんやりPCの前に座ったら、私がベルリンに降り立ったのとちょうど同じ年頃に、死を覚悟してマニラに向かった祖父のことがふと思い出され、手元に彼の手記があったのを幸い一気に筆を進めた。

祖父は心底ベートーヴェンを敬愛しており、交響曲第94楽章の合唱「歓びの歌」のドイツ語歌詞を全てカタカナ書きにして、当時小学生だった私に手渡してくれた。祖父はドイツ語も堪能だった。私はほとんど意味も分からぬままそれを暗記し、祖父と大声で歌ったものだ。今でも全部そらで歌える。私が留学先をドイツに決めたのも、この辺りが本当の理由なのかもしれない、と今になって思い当たった。

祖父から贈られた本の内開きに「えりちゃんの 真実の幸せの光を祈って 祖父義亮」と達筆で認(したた)められている。次の10年、私は何を思い、どのように生きてゆくのか。

祖父が診察室で口ずさむ歓びの歌が、今にも聞こえてくるようだ。

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